MOGWAI @Hiroshima Club Quatro 01/06/2016

モグワイを観ました。

今回のツアーは広島への原爆投下から70年に伴ってBBCが制作したドキュメンタリー映像 ”Atomic” に彼らが提供した同名サウンドトラックに合わせてのものになっているとのことでした。

広島公演に先立つ東京、大阪公演の反応はインターネットで見ていて芳しくないというか、賛否両論だったので正直かなり不安だったのですが実際に目にしての感想としてはただ一言、素晴らしかったです。

また広島公演に限りスクリーンのみの露出でバンドはそのバックで演奏するとのことだったのですが、僕が思うにその理由は恐らくハコのキャパシティに問題があるような気がします。というのもモグワイ級のバンドを観るにしてはわりかし小さいハコなので、単純にスペースの問題でスクリーンを遮ることなく演奏することが難しかったのではないかと思ったからです。ただ今回それは怪我の功名とも言うべき効果を生み出していました。視覚情報が映像だけにフォーカスされたことによって映像と音楽だけに極めて集中して観ることができたからです。

僕はそもそもライブという経験に対してバンド云々よりその音が鳴っている空間から受け取れるだけのものを受け取ろうと思って観るのですが、その点から言っても今回のライブは素晴らしかった。ツイッターを観ていてモグワイはダークだったとかあまりにポリティカルすぎるという声が散見されたのですがそのどちらも僕は全くもって感じませんでした。

映像に関して言えばあれは完全にモグワイの音楽を補佐しているだけで、ドキュメンタリー映画だとか言うよりも核にまつわるあらゆる歴史や意見、それらがもたらす悲劇と価値をひたすらフラットに並べているだけのもののように見えました。また音楽は完全にインストルメンタルで、詩や歌を排した音楽が、ただ音の振動だけが彼らの真に言いたいことを内包していたように感じます。
では彼らが何を言いたかったのかと何を文字にしたところでそれは推測、良くて分析の域を出ないし言葉にすることで感じたものから遠ざかってゆくので僕にはできません。またそうした言葉を排した音楽から僕が感じたのは言葉にできない感覚であり、それこそが原初から何も変わっていない音楽というものの真価だと信じているからです。
また映像が補佐でしかないと思った理由もそこにあって、映像の中で使われたプロパガンダやドキュメンタリーの言葉は彼らの音楽を代弁したり説明したりするわけではなくただ音楽を構成するためのピースでしかないと感じたからです。
つまり彼らのアクトを観て唯一僕が言葉にできるモグワイの抱くメッセージとは、”There's a thing like this”というようなシンプルなセンテンスだけだと感じました。この最小限のセンテンスに説明を付加していくことは可能ですが、そうすることで僕が抱いた感覚からは遠ざかっていくことをまた知っているので僕はしません。
思考停止だと指摘されそうな気もしますが、そこで僕たちが思考したことは前述の通り推測か分析にしかなりえません。人間はそれぞれが身体という境界線で断絶されていて、誰一人として他者が投げかける言葉に隠れた意味を完璧に自分のものとして感じることができないからです。音楽や芸術はそれを逆手にとって三者三様の感覚を抱かせるツールであり、それが僕がそれらを愛する理由だとも思いました。
ですから僕は一言に感動し、またある人は自分の期待するものじゃなかったと落胆したりつまらなかったと批判したりするのはすべてその人の抱く感想ですから善悪の二元論で括ることのできない事象だと思います。
それはまた彼らがテーマに選んだ核に関しても同じであり、彼らはクラフトワークのように言葉で否定したりはしませんでした。肯定もせずただ核について「それがある」こと、それがどんなものかを見せただけです。
彼らのアクトにポリティックな印象を抱かなかったのはそのせいだと自分の中では結論付けているのですが、また同時に核というテーマを扱うことで必然的に政治的で押し付けがましいものだという印象を抱くのはずいぶん損な風潮だと思います。今回のアクトにそう感じた人を批判するわけではなく、それがどんなものかというのは予備知識や色眼鏡を取り払ってまず素直に音楽を聴いて感じるべきではないかと思うのです。

以上です。あとどうでもいいんですけど物販の女の子がマジで可愛くて最高でした。めっちゃ友達になりたいと思った