藤本タツキ「ファイアパンチ」論

少年ジャンプ+連載、藤本タツキの「ファイアパンチ」はその注目と人気に反して読者を翻弄しまくっている。マンガのタイトルを検索すれば「意味不明」と言うサジェストが出てくるし、物語が破綻している稚拙なマンガだと言って憤っているオトナもいる。このポストではファイアパンチの1-13話を、映画という概念を通して読解する。

 

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ファイアパンチの作品世界は、「生まれながら奇跡を使える人間」たる祝福者が存在し、少なくとも西暦2200年以降に氷の魔女と呼ばれる祝福者によって氷河期に至ったポスト終末世界だ。

 

主人公アグニは妹ルナと二人でその散り散りになった小さな共同体のうちの一つで暮らしている。しかしこのコミュニティでの二人の存在を異質そのものだ。二人は祝福者であり、彼らの能力は肉体の優れた再生能力そのものであった。彼らは自らの肉体を切断し、村人たちに分け与える。二人の兄弟仲は異常に密接であり、ルナに至っては「村には私たちしか若者がいないから」と行為を持ちかけすらする。

しかし、この平穏は外部からの干渉によって断絶する。打倒氷の魔女を掲げるベヘムドルグ王国から物資を求めて訪れた兵士たちは村で強奪をはたらき、村の家々から人肉を発見する。兵士たちのリーダーである祝福者ドマは、その「焼け朽ちるまで消えない炎」という祝福(能力)を使って村人もろとも全てを焼き払う。妹より強力な再生能力を持つアグニは、身体の燃焼と再生が絶え間なく無限に繰り返される受け入れがたい苦しみの中で、燃え尽きゆく自らの妹に「生きて」という言葉を遺される。ルナの遺言とドマへの凄まじい憎悪を胸に、アグニは8年間に渡って身体を焼かれ続け、ついにその身体を制御することに成功する。

 

ここまでがファイアパンチ一巻の物語世界への導入部だ。非常にオーソドックスな形式をもって「東京喰種」や「亜人」によって青年漫画のスタンダードになった食人、人体欠損、再生能力といったアモラルなガジェットや、レイプ、近親相姦、奴隷といった過激なそれをポスト終末世界におけるヒーローの誕生過程に自然に落とし込む。主人公アグニの背景、目的、動機は妹に捧げる復讐劇のイントロダクションとして滞りなく提示されてゆく。なめらかかつ手際よく読者を物語世界へいざなうこの段階ではその緻密で明白な方法論をもってしてもなお、昨今の時流に乗った「アブノーマルで残酷」かつ暴力的にアッパーな作品の亜流として受け止めることは可能だ。いわばヒーローを提示し、彼の葛藤や苦痛、再来する過去のエピソードを通して強敵を打ち破って成長してゆく過程を想像させるような、あの偉大な権威である正しい「ジャンプ的」方法論の極致がここにある。彼がダークヒーローだったとしてもだ。

 

しかし、この正しいジャンプ的構造、ひいては正しいマンガ的構造は一人のキャラクターの登場によって完全に破壊される。

 

トガタは、文明以後の文明なき作品世界とその物語構造に「文化」を携えて殴り込みをかける。それまでの荒廃した世界設定を無視するようにフーディーとジャージを着た彼女は、ハンディカムの目線を通したミニマルなタテ4コマでマイペースに自己紹介をする。「ブレインデッド」「スターウォーズ」「ホームアローン」など実在の作品名を上げながら映画が好きだとひとりカメラに向かって言う彼女は「1900年代~2200年代の文化革命まで」に制作されたというそれらを愛し、手下が撮影したアグニの映像を観て彼を主人公にした映画が撮りたいと宣言する。強力な再生祝福者であり自殺を完遂できない彼女はベヘムドルグ王国の手で自身の映画コレクションを燃やされたことによって生きる意義を失っていたが、彼女の庇護下にいる手下たちがアグニの映像で映画を作るよう焚きつけたのだ。

 

手下のセリフはすでに興味深い。「主人公の条件はそいつがどうなるか知りたくなること」とトガタの言葉を借りる手下は、アグニが「この世界の主人公」であると告げる。この十分にメタフィジカルな瞬間から作品内にはオブジェクト(主人公)、それを撮影・鑑賞する主体(監督)、純粋な記録媒体であるカメラという3つのガジェットが明示され、マンガ的構造を内側から破壊していく。それはもはや示唆的な作者の目配せやメタのユーモアといったレベルではなく確信犯的な破壊行為だ。

 

トガタは、少女を取り囲みレイプしようとする兵士たちにカメラを向け「悪者は死ぬだけである程度のカタルシスが生まれる」「私がキミたちを殺すことが正当化される」から「早く犯せ」と言い放つ。極めて露悪的なこの物語性への批判は、悪事をけしかけて殺害することの正当な暴力性、勧善懲悪の正義を演出するというある種の物語自体に備わっている「機能」を露わにする。ましてジャンプ的な物語はそういった少年的な正義の物語そのものであるにもかかわらずだ。

 

映画論におけるこの「機能」をジャン=ルイ・ボードリーはシネマトグラフィック・アパラタス(映画装置)における光学器械の技術的本質と呼んだ。アンドレ・バザンによればカメラ(光学器械)とは人間の手を借りることなく現実というオブジェクトを切り取る無機質な仲介者であり、そこで人間に与えられた美学は「何を」「どう」撮るかという選択肢に過ぎない。つまり人間がカメラを操作してオブジェクトを選んでアングルを決め録画ボタンを押している限り、その映像は主体が持つイデオロギーからは逃れられないのだ。ボードリーはこれを踏まえて撮影行為と成果物の間には変容のプロセスがあり、成果物がイデオロギーを表現するにもかかわらずそれを表現するまでのプロセスおよびそれがもたらす効果は決して露わにしないという特色、これが映画装置の技術的本質であり、またその特色の上に成立していることを示した。さらにボードリーはこの技術的本質にフロイトの無意識との類似性を見出す。監督が物語を緻密に構築してゆくのにしたがって、抑圧された無意識=技術的本質を露わにしたいという欲望が表出してくるというのだ。この暴露は観客にとっては明らかな断絶となる。技術的本質が垣間見えることによってその物語が「作られたもの」であるという事実と「どう作られたか」という方法が露わになり、物語がその瞬間に純粋な物語として成立しなくなる。

 

奇妙なことに、トガタはハンディカムで作品内の「現実」を撮影する。その行為には彼女のイデオロギーがあり、それにそぐわない現実には不満を露わにする。しかし作品内の「現実」もマンガにおいては作者によって描かれている物語世界に過ぎない。トガタが我々の現実にも親しい文化(ハンディカム、スパイダーマントムクルーズ etc)をこのほとんどファンタジーめいた作品設定の中に持ち込んできたにしてもだ。またトガタは「まだ主人公出てきてないのに」などと何度も「主人公」という言葉を口にし、周りのキャラクターはそれを聞いて訝しがる。トガタがここでマンガ的世界を破壊しているのは、彼女が作者だけでなく読者とも視点を共有しているからだ。彼女の言う「主人公」は読者にとってのそれと同一人物=アグニであり「現実」は読者にとっての虚構そのものであるために、またそこに持ち込まれた文化が我々のものであるがゆえに、読者は換喩的にこのマンガ自体が物語であること、それがプロセスによって創られる虚構であること、我々がそのプロセスによって享受する快楽の内容までも彼女の行為によってぎこちなく再認識する。トガタは読者と一緒にアグニを見守って追うキャラクターでありながら、その行為は作者が物語を構築するプロセスそのものと重なっているがゆえに不気味な二重構造が発生する。メタなギャグマンガでもない極めてシリアスな物語が展開しているのに、同時にその隠された秘密であるはずの物語構造が主人公のチンポのごとく完全に露呈しているのだ。

 

トガタは映画を作る享楽のためにアグニを使役する。彼の憎悪や怒りや責任感を煽ることで物語の因果関係を再設定し、作品の、彼女自身の最高のカタルシスへと導こうとする。これはマンガを描く享楽と重なる。この段階において物語を促し可動させているのは主人公たるアグニではなく、このマンガをコントロールしている神=作者が直に使わせた使徒たるトガタに他ならない。トガタは宣言する。「私が監督で、カメラがアイツで、キミが主人公 ドマが敵役」見開き1ページを使って後光をバックに立つアグニは宣言する。「俺は主人公になる・・・」

 

劇本編と全く同一の内容を持つ劇中劇は物語の享楽を完全に破壊する。そこにあるのは不快で不可解な虚構性を突きつけてくる虚構そのもの、没入を拒むそれに没入しようとするサドマゾヒズムの享楽かもしれない。「長距離の移動を短くカットして印象的な効果音とともに目的地に到着する」とトガタが説明するにしたがって移動のシーンが2コマで済まされる。笑っていいのか引けばいいのかもはやわからなくなってくるが、恐ろしいことにファイアパンチはさらなる転調を止めない。このあと劇中劇だけが破綻して、それ自体までイデオロギー機械にすり替えて物語性の暴力的な権力が再来するのだ。

 

(つづく)